カニル・ルビーはそのままに
カニル・ルビーは力の源
谷に眠る 赤き石
ひとたびルビーに触れさえすれば
限りない力はその手のひらに
赤い力が味方する
その1.
三時間目の授業は、数学だった。サイン、コサイン、タンジェント、と呪文のような言葉が先生の口から流れている。ここは重要ところだからうんぬんかんぬん……と。
進学校のこのS高校では、そんな先生の言葉を、だれもが真剣に聞き入っているのだった。いや、たいていの人は……というのが正しい。
幾人かは他の授業の内職に夢中。また何人かは、夢の世界へ旅行中。ほかに、ひそひそ話をしている後ろの方の女子と……あとはケータイを覗き込んでいる人。みんな何かをやっていた。
授業を受けるでもなく、眠るでもなく、実際に何にもやってない人間と言えば、窓際に座る木下明日香くらいのものだ。
窓の外をみていた。
木下明日香はやる気がない。何事に関しても。
それは勉強はもちろんのこと、部活、趣味、それから、もっと生活の細々したこと……たとえばおしゃれとか、部屋の模様替えとか、バイトをして新しいものを買うとか。
よりよい生活、向上心とか呼ばれるようなものとはかけはなれたところにいた。
良く言えば、欲がない。だがそれは、同時に意欲がないということでもある。
そういうのは、とかく悪いほうに言われがちだ。
木下明日香の日々はただ、何事もなく過ぎていった。
無駄に流れていく時間。
無気力な自分。
――でも、仕方がないじゃないか。
――やりたいことも、意欲も……ないんだ。
自分は少し変なんだろうか、と思いながら明日香は、あいかわらず無気力な日々を過ごしていた。
そんな生活のなかで、ちょっと変化がおとずれる日だったのだ。今日は。
「木下さんは、何か、とてつもなくやる気とか、意欲がないのね」
「え?」
三時間目あとの休み時間。数学の教科書をしまっているときだった。振り返ると、同じクラスいの子だっただろうか。あまりなじみのない女子が話しかけてきている。いきなり、核心を付たようなことを言う。
「ん……まあ……」
明日香は曖昧に答えた。その子は背の低めの、短い髪をした女子だったが、あまり知らない子からのこの質問。いきなりなんだというのだろう。
相手の女子は、明日香の曖昧な答えになぜか満足したようにこくんとうなずいた。その、明日香を見つめる瞳には、何かの熱い思いが、見え隠れしていた。
「やっぱりそうだと思った。あなたには、やる気がない。だれよりも」
嬉しそうに何度もうなずきながら、宣言するように言う。
一体この子は何が言いたいんだろうとぽかんとしながら明日香は思った。
☆
話はとんで、明日香とは別の世界のこと。
「一体この谷はどこまで深いんだろう……」
強い風に、赤いマントがバタバタとはためく。強い風は、目下、深い谷の底から吹き上げていた。
コオオォォ……
見下ろすだにぞっとする。口を開ける大きな闇。ここは、カエリの谷と呼ばれる、世界で最も深い谷だった。
そのふちで、赤いマントをはおった青年が谷底を見下ろしていた。当然谷底は見えない。だが、その底で赤い光がひとすじきらりと光ったような気がしたのは、自分の願望が見せた幻ろうか? 求めて求めて、やっとたどりついたこのカエリの谷だから。
求めていたのは、カニル・ルビーと呼ばれる秘宝だった。
カニル・ルビーは強大な力の源。力そのものの結晶である。その宝石からは純粋な力がいつでも、いくらでも引き出せるという。
決して尽きることのないその力は、主に選ばれた一人にのみ与えられ、その人間が死ぬとまた別の持ち主が選ばれる。
今、カニル・ルビーは持ち主がいない状態だった。
持ち主がいないカニル・ルビーはこの、カエリの谷に戻り、主人を待つ。谷には、ルビーを手に入れるためのいくつかの試練があるそうだ。それを越えてゆき、見事ルビーに触れることができたものが、次のルビーの主になるのだという。
赤いマントの青年は、そのルビーを求めてこのカエリの谷まで長い道のりを旅してきたのだった。
野越え山越え谷越えて、家族も恋人も捨てこんな辺境の地まできた彼の望みは、唯一つ、世界の平和だった。
人間の世界は常に、大魔王の手によって脅かされている。四本の角を持つと言う、大魔王クルルザンの支配する魔族の勢力に、必至に抵抗している状態が続いていた。
もう何千年も前からだ。
そして今もなお、人々は魔族の奇襲に怯える毎日を過ごしているのである。
彼は、族聞いの支配からこの世界を救いたかった。だから、カニル・ルビーの持ち主不在とのうわさをてここまでやってきたのだ。
強大な力を手にし、大魔王を倒して人間の平和を手にするために。
カニル・ルビーはこの下に……
谷慎へ降りていく、親切な下り道は無い。彼は、近くの木にロープをくくりつけ、覚悟を決めると重に谷底へと下っていった。
谷は思った以上に深く、ロープを下っていく時間はそれこそ永遠かと思われた。途中からは手がしびれてきて、彼は岩のくぼみを利用して休み休み降りていった。
そしてとうとう片足がそれ以上降りる先の見つからない足場……つまり地面に付いた頃には、疲労困憊、疲れ切っていた。
あたりにはもう日の光も届かず、真の闇が充満している。赤いマントの青年が手探りでたいまつに火を灯すと、やわらかな光が一部の闇を溶かした。
すると、近くで何かの気配がした。
「何だ?」
すばやく身構えるとともに、たいまつをそちらに向けると、炎のオレンジ色の光がそこにたたずむひとりの人間を浮かび上がらせた。彼はぎょっとした。
「人間? いつからいたんだ?」
たいまつが照らしたのは、白い肌に、淡い金髪。自分と同じくらいの青年。
現れた相手もたいそう驚いたようで、
「びっくりした。人がいたなんて。今降りてきたとこなんだが……」
と、炎のオレンジの光に目を細めた。その瞳は、めずらしい緑の色をしている。彼は肩で息をしていた。
「君も、カニル・ルビーを?」
と聞いてきた。
「君もか」
それを聞いて赤いマントの青年は、ほっと胸をなでおろした。どうやらちゃんと人間のようだ。一瞬、魔族かと思ったのだ。こんな状態で魔族にあったら、ひとたまりも無い。しかし人間ならば同志。この状態ではむしろ助かるとおもった。
「俺は、アルフ。魔王を倒すために、ルビーを取りにきたんだ」
と、赤いマントの青年は先に名を名乗った。
「魔王を倒しに?」
青年の美しい緑の瞳が、驚いたように見開かれた。その、猫の目のようなちょっと変わった色合いの瞳に、アルフは思わず見入った。何か、ひきこまれそうになるような不思議な色だ。
「そう。君は?」
アルフがたずねると、緑の瞳の青年はにっこりと微笑んだ。この暗闇の中で、思わずほっとするような、屈託の無い笑顔だった。
「僕もだ。奇遇だな。時を同じにして同じ目的を持つものに合えるなんて。僕は……ククルスいうんだ。よかったら一緒に行かないか」
……というわけで、赤いマントのアルフと、緑の瞳のククルスは、カエリ谷の底の闇の奥へと、カニル・ルビーを求めて共に行くこととなった。
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