君のことばかり (上)
「あ、栗原……」
がらりと開けた教室は、てっきり空だと思っていた。
ここは中学の三年生の教室。
放課後になってかなりたつ。いつも長々とおしゃべりしているような連中だって、もう帰っているような時間だ。
電気のついていない少し暗い教室にはオレンジの強い光ばかりが差していた。
人気の無い教室は、確実に寒さを感じる。それもそのはず今は2月。三年生は受験も大詰め、という時期だった。
誰もいないと思った教室にいた一人、名前を呼ばれた栗原は、夕焼けの光の中でいままで集中していたらしい何かからはっと顔をあげた。そして彼にとって思いもしなかった人物を見つけて思わず名をつぶやく。
「岡野……」
呼ばれた彼、たった今この教室に足を踏み入れた男子の名は岡野と言った。
少し太めの体型、けれどそれは人を和ますいい要素となっている。事実、この教室に彼が入ってきたことで、空気がいくらか和んだのを栗原は感じたのだった。
お互いの名を呼んで、ふたりは何とも言えない雰囲気をまといつかせたままちょっと呆然としていた。栗原はもといた席に座ったまま。岡野は教室の入口に立ったまま。
しばらくそうしていて、岡野のほうが、はっとわれに帰りそそくさ、とでもいう仕草で自分の机のほうに向かう。
今日は、学校に読み掛けの本を忘れた。
それは受験のお供の、星新一のショート・ショート。
区切り区切りに話を一本、読むと集中力とリラックスの関係が丁度いいらしく岡野は受験勉強のお供に星新一の本ははずせない。
それを忘れたことに気付き、こうしてわざわざ学校まで戻って来ていたのだ。
「どうしたんだ? こんな時間に」
かけられた栗原の言葉に岡野はビクリとした。
話しかけていいのか、こんな、教室なんかで……?
「わすれもの……一度帰ってからまた来たんだ」
岡野の机は窓際の、栗原の今座っている席からは斜めふたつ後ろだった。
なるべくはやく探して帰ろう……
そう思い、岡野は焦っていた。
(こんなところを誰かに見られてはやっかいだ)
こんなところ、とは、栗原と教室に二人きりという状況のことであった。
岡野は足早に自分の机へ向かい、その中を探る。
あの本、帰りにどこにやって帰ったのだったか……机の中、教科書の合間を分け入っていもなかなかみつからない。
あせりつつも机の中身を全部出してごたごたやっているうち岡野は肘を机に当てて、今積み上げた教科書を、結局どさどさと床にぶちまけた。
「ああ……」
それも手早く集めていると、横から手が伸びて、ひょいひょいっと教科書を集めて机に上げた。
見かねた栗原が、ここまで来て教科書を拾い上げているのだった。
岡野はぎょっとした。
「近寄んなよ……」
周りへの警戒心もあらわに岡野がぎこちなく苦笑いして言う。
「気にすんな。こんなおそくなって、誰もきやしない……ほらよ」
散らばったプリントを重ねて栗原が手渡す。
岡野は受け取って意味もなくそのプリントを見つめた。
「……そうだな」
二人には、一緒にいては都合が悪い、わけがある。
岡野のこの一年といえば、ほとんどこの男、栗原にばかり気を取られて過ぎた。
なんで親友でもない男のことばかり集中していなければならなかったのだろう……?
その不満は、恐らく目の前の栗原も同じだろう。二人は同じ境遇にあるのだ。
目を合わせて、ある意味同じ苦労を共有したもの同士の変な笑みを交す。
「おれたちはホモなんかじゃねえよなあ」
「当り前だ」
「もう、うんざりだぜ」
「そのとおり」
二人は、気が合わないわけでもないのにこの一年、お互いを避けなければならなかった。
きっかけは、たった一回のキス。
それは不幸な事故だった。
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