君のことばかり (下)
「あれからもう、一年だろ?……いやそんなにはたってないか? なんにせよいい加減時効だぜ」
あの場に田中がいたのが悪かった。
彼はすぐ他人をネタにしておちょくる。
そしてこの班の女子というのもまた、クラスの女子達の中で噂好きの一角をなしているグループの子が入っていたのだ。
『栗原と岡野はホモで、体育用具室でキスをしていた』
というのは中学生の新しいクラスにはあまりに面白すぎるネタで、あっという間に教室に広まってしまった。
あくまでネタとして、だが、それはクラスのなかでしっかり定着してしまった。
それ以来、二人の間に何かあれば――それは二人がちょっと会話を交わすとか、どんな些細なことでも――とりあえずは近くにいた人間が二人のことをからかう。そして聞きつけた田中がいちいち増長させる。そういうシステムができていた。
それはクラスにしてみれば、ただのおもしろいネタだったのかもしれない。だけど、当の二人はからかわれるのは心底いやだった。あたりまえだ。
だから二人はお互いの距離をおくことについて、この一年間、ものすごく慎重だったのだ。
慎重に、慎重に、避けてきた相手と、けれどこうして今、偶然に居合わせて放課後の教室でふたりきり。
予想もしなかったことにふつうに話している。
電気をつけていない教室のなか、横からの強い夕日で彩られる栗原の顔は大人びている。
中学生は成長期だから、3年の始まりと終わりとでは、男子は全然風貌も大人びてくる。
背も高くなったし、心も大人になった……気がする。
栗原が言うようにあれからずいぶん時間が経ったんだな……と岡野は思った。
「時効か。まあそうだよなあ。……とはいっても、あの、お調子者の田中が、相変わらず古いネタも何もかも、大切にしやがるから」
ちょっと教室の外、廊下のほうに目を走らせながら、岡野が答える。
まだこのクラスはあのネタをひきずっている……それで心配しているのだが、今日は誰ももう、こんな時間に教室にくるようなことはない気がした。
だったら、この栗原と、少ししゃべっていてもいいか……。
岡野は見つからない星新一の本はあきらめて、机の上に出した教科書類を戻しはじめた。
この話の流れで、いやがうえにもあのときの体育用具室での情景を思い出す。
偶然の事故とはいえ、あれはひどいキスだった。いや、キスなんてもんじゃない。たまたまぶつかったのが口同士だっただけのことなのだ。
落ちたソフトボールで上がった埃の匂いと、血の味、背中も額も唇も痛かった。だけのそのせいだろうか、妙に良く覚えていて、忘れられない。
「今更だけどさ、笑っちまうことにおれ、あれがファーストキスだったんだよ」
と、岡野はきりだした。
「あれって、あの体育館でのか」
「他に何があるってんだ。……それで驚くやらショックやらで、固まっちまってた。なんか、血の味ばっかり気になっていたな」
「ああ……血の味、たしかに血の味がしたな」
そういった後、ふと黙ってから、思い出したように栗原は笑う。
「実は……打ち明けるとな、おれもそうなんだ。笑っちまうことにあれがファーストキス」
岡野は驚いた。
「お前が? あんなに女と付き合っていながら他のだれかと、キスしたこと無かったのか?」
「つきあうっていったってねえ……そうすぐにキスしない。ほとんど男子のオトモダチと変わらなかったんだよ。おれ、あんましキスとか、興味なかったし、男からしないと、女は自分からってなかなか難しいみたいだ」
「ふーん、そうなのか。俺は相変わらず、もてないからそういうのわからない。キスもあれっきり……お前との、男とのキスしか知らない」
と、岡野は冗談めかして言った。
「お前はその後、ちゃんと知れたのか、女とのキス」
「ああ、まあな」
栗原は、その言葉にちょっと前まで付き合っていた女子のくちびるの感触を思い出した。あのあと栗原は焦ったように女子とのキスを求めたのだった。
前の彼女、さらにその前……。だけどここにきて、あの岡野との、キスともいえないキスが一番、良かった様な気がふとした。
なぜだろう。血の味なんかしていたのに。額も唇もずきずき痛んで、ほこりっぽい匂いの中でのキスだったのに。
そこで、とんでもないことばがぽんと口をついて出るのだった。
「岡野、もういちどキスしないか」
一瞬、この場の時が止まったような気がした。岡野が教科書をしまう手を止める。
(俺は一体何を言っているんだ)
でもなぜか今の言葉を訂正する気は起きなかった。
栗原は、黙って岡野の反応をうかがった。
岡野といえば、ちょっと驚いた顔をして栗原を見ていたが、それがなにか思索するような表情に変わる。
いろいろな思考を働かせながら、いままで避けあっていた二人はしばらくそのまま見詰め合っていた。
避けあっていた。だけど、それはつまりとてつもなく相手を意識し注意していたと言うわけで、この一年間、実は一番見ていた相手はこのお互いなのだった。
そんなことを岡野は思う。避けていたのに、いたからこそ、岡野は栗原のこと、良く知っている。
好きでもないのに、嫌いでもないのに、君のことばかり見ていた。
それも、おかしなことだなあと岡野は思った。
「いいよ」
やがて岡野は少し笑ってうなずいた。
「それじゃあ……」と言って、栗原が岡野と机をはさんで向かう。
いつの間にか、窓から刺していた夕暮の日も弱まって、教室はずいぶん暗くなっていた。
閉められた窓の外から野球部の練習の掛け声が、遠く聞こえる。カラスの間延びした鳴き声も聞こえた。それから、時計の長針がカタリ、とひとつ動く音。
不思議な気がした。
いままでこんなに距離を置いていたのに、あの体育館でのときから、心が繋がっていたような、変な錯覚が。
岡野が目を閉じる。栗原は、唇を寄せた……
人の温度がお互い感じられるほどまで、二人の距離が縮まった、そのときだった。
ガラリ
と。
急に教室の閉まっていたほうのドアが開き、二人はぎょっとして振り返った。
「あ……」とその場に立ち尽くしていたのは、田中。
馬鹿みたいにぽかんと口をあけて、二人をみつめる。
デジャヴ……田中ときたら、どうしてこうも、タイミングのいいやつなのだろう。
「お……お前ら、ほんとうに……? えっ、そうだったのか?」
心底おどろいた、というふうで、声が上ずっていた。
なんてこった……と、頭痛がしだした岡野の横で、栗原は変に色っぽく笑って見せた。
「そうだよ」
それから、田中の前で岡野にちょっと口付ける。
「……ね?」
とくちびるを離していうのに何となく、岡野もうなづいていた。
その二人のキスもぽかんとしたまま見つめる田中に、栗原はしっしっと手で払う動作をした。
「邪魔者は消えな」
田中は放心したままこくんとうなづいて、そのまま回れ右した後、あわてて廊下を走って行った。バタバタバタ……と、静かな校舎内に上履きが床をける音が、しばらく続いて遠くなった。
「あーあ……なんてこった」
その音を聞きながら、岡野がため息をついた。
「また明日、噂になっちまうな……」
だけど栗原は否定した。
「いや。それはないだろう。たぶん、田中も言わないよ。だって……ここで俺たちのネタ盛り上げても、ほんといまさらって感じだし」
「まあたしかに」
「そんなことより、もうそろそろ帰ろうぜ。気がついたらもう教室まっくらじゃねえか」
確かにその通りだった。夕日のあかりも弱まって、この教室はもう暗い。
田中はきっと、まずこの暗い教室に人がいたのに驚いて、さらにその二人が例のネタの二人で、ネタじゃなく本当にキスしようとしているところだったのに驚いたのだろう。ダブルパンチでの彼の驚きが予想されてそれが岡野には変におかしかった。
「あ……そういや」
と、自分の席のほうに戻った栗原が、手に何かを持って振り返った。
「これ、お前の机の上にあったやつ、ちょっと借りてたんだわ」
といって差し出すのは、文庫本。
それこそ岡野が学校に戻ってきた理由。探していた星新一の、ショートショートだった。
受け取ってぽかんとする。
「これ探してたんだけど」
「あっそうなの? おれさ、星新一好きなんだよ」
後に付け足された栗原のその一言で岡野は、「それを早く言えよ」とか、「勝手に人の本読むな」とかちょっと文句を言ってやろうと思った気持ちも吹っ飛んでしまった。
「ええっ……そうなんだ? この作者で反応したの、君が初めてなんだけど」
栗原は鞄を取りつつうなづく。
栗原としては、岡野の星新一好きは知っていた。そのことでも、ずっと話してみたいと思っていたのだ。
「うん。 ……いいよな。星新一は。おれさ、最近は受験勉強の合間に1話って決めて読んでんだけど、これがなかなか気分転換によくってさ」
「うわ……気が合うな。おれもそう。それで今日、この本学校に忘れて調子悪くって」
岡野もさっさと残った教科書を机にしまうと、自分の鞄に星新一のショート・ショートをしまった。
それからあんなに距離を置いていた栗原と岡野は、肩を並べて、星新一のSFの話なんかしながら下校したのだった。
中学生活も、あと少し。この先二人が遅れてなるのは親友か、それとも恋人か。
END
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